2014年6月26日木曜日

7月20日特別礼拝の案内

7月20日特別礼拝の案内

説 教   「今、省みる終戦時・・・『満州国』とキリスト教開拓村の意味・・・」

説教者   石 浜 み か る 氏 ( 作  家 )

聖 書   マルコによる福音書12章28~31節

讃美歌21  2、205、57、426、92

懇談会   礼拝後、講師を囲んでの懇談と昼食(300円)の時間を持ちます。

6月29日の礼拝

6月29日の礼拝案内

説 教   「 和 解 の 手 を 」

説教者   長 尾 有 起 伝道師 (早稲田教会)

聖 書   マタイによる福音書18章21~35節

讃美歌21   21、98、413、398、89


坂町坂だより NO.339



 本文884頁、解説を加えると890頁を超える堂々たる伝記、復刻版『ブゼル先生伝』(著者・栗原基、伝記叢書109、大空社1992年)を10数年振りに手にして、改めて読み直している。原本は1940年、昭和15年に発行された限定500部のものである。栗原基氏は旧第三高等学校(現京大の前身)教授であったが、その栗原氏の大変な労力と、それを支えたブゼル先生との深い出会いや敬愛の思いがなければ到底成し遂げられなかったに違いない。膨大な資料と書簡類、また日米の関係者の証言とたくさんの人々の思い出など、収集整理するだけでもかなりな作業であろう。ブゼル先生は1936年(S11年)25日に満69歳で召されたが、死後4年以上かけて発行に至っている。

実は先日、現遠野教会牧師・遠野聖光幼稚園長であるM先生の紹介によって、今秋11月に開かれる尚絅学院「建学の精神研修会」において講演を依頼され、それをお引き受けした。そこでM牧師から復刻版をお借りして読み始めた次第である。予期せぬことであったが、ブゼル先生の後半の生涯を改めて思い起こすことに意味があると思った。

先生は、仙台のミッション・スクール、尚絅女学校の創設期1892年(M25年)に弱冠26歳で米国より来日、初代校長として今日の尚絅の基礎を築かれた。女子教育だけではなく青年にも聖書を教え、そこからは大正デモクラシーの吉野作造、島地雷夢、内ヶ崎作三郎らが受洗し、著者の栗原氏もバイブルクラスの一員であった。更に1920年(T9年)のクリスマスに、54歳で遠野に移住し、翌春に遠野聖光幼稚園を創設されたバプテスト派の宣教師である。

1981年、私の牧師・園長としてのスタートが遠野であり、そこで様々な形でブゼル先生と出会った。もちろん生前にお会いすることはなかったが、晩年を迎えた先生に教えられ、お世話になった方々に出会った。その方々の多くが既に天にある。また神の不思議な導きとしか言えない経験にも与ることができた。日本のかなりの教会、私立大学や女学校、幼稚園・保育園、病院等は、実に数多くの宣教師たちの命を懸けた働きによって基礎が据えられ、今日までの歴史がある。そのことを忘れないために「遠野ブゼル先生物語」を語ろうと準備を始めた。

坂町坂だより NO.338



 良く知られている昔話の一つに「わらしべ長者」というお話しがある。1本の藁を次々に物々交換してゆく日本のおとぎ話ということだが、私の岩手訪問の旅も同じような展開となるのが常である。今回はあの日以来19回目の岩手・被災地訪問、北支区とドイツ語福音教会のために情報収集を含めて、昨年11月以来の訪問となった。

 主たる目的の一つ「献金」以外には数個の四谷名物、それと妻の友人の関係するシーズプロジェクトの「不思議な種」が今回のお土産である。廻った所は6教会、6幼児施設、20数人の友人知人。しかも今回は、30年来の友人K牧師との久しぶりの珍道中。彼は福井県敦賀からボランティアのために、偶然2年ぶりに岩手入りしていた。彼とはかつて同じ地区・同じ学校法人内で12年間の豊かなお付き合いがあった。

 江刺ではO牧師夫妻に迎えられ種を。美味しい手作りのスウィ―ツと亀の子煎餅を頂き、昼食には農家の主婦たちが営む店で「蕎麦」をご馳走になり、そこで蕎麦を4ヶ購入。千厩・大船渡と牧師たちを訪問し種を。夏の準備と情報収集。釜石に入り知己の酒屋に行き蕎麦を2ヶお土産に。飲み物を購入すると、地元の焼酎を1本サービスされた。定宿に向かう途中知人宅で煎餅と蕎麦をお土産に。定宿では仲間と夕食会で懇談、情報交換。四谷土産と種と焼酎を渡す。翌朝知人宅で四谷土産は仙人秘水2本に。前夜友人が持参したお酒と漁師の友人が届けてくれた大小のホタテとホヤを交換。新生釜石教会へは献金と種を届けて共に祈祷会で祈った。大槌町の3つの幼児施設にも種を配り、宮古教会へ。午後の祈祷会でやはり献金をお届し、幼稚園には種を差し上げた。

 夏の交流の旅の下見を兼ねてM牧師、K牧師と3人で夕食を取り、翌朝早く遠野へ。途中友人たちを訪ね、海のものは白菜、どぶろく、米10キロに交換変化。幼稚園に種を届け、岩手地区牧師会で挨拶後、家族と合流予定の新花巻へ。花巻では97歳を迎える反戦平和の歌人M姉を訪問し、歌集のお礼に四谷土産・海のもの・白菜を。歓談し共に平和を祈り、孫1歳の食事会の宿に。米は息子と次女に分け、たくさんの再会の喜びを頂きながら帰路に。友人の真摯な提言、被災地の復興でも再生でもない、「新生」こそが真の課題との言葉を心に刻みながら戻った。

坂町坂だより NO.337



 既に何度も書いてきたことであるが、北支区には連合祈祷会があり、1月を除く年間11回、各教会を会場に提供して頂きながら祈りと交流の会を開催し続けている。内容は前半が礼拝で、信徒の方の証し、牧師の説教、賛美と祈り、その後30分の交流というパターンである。北支区は日本キリスト教団の信仰告白、及び「戦争責任告白」を指針として支区形成に励んでいる。社会的な問題への関心も高く、また取り組んでいる課題も多岐にわたる。その広がりと関わりの深さにいつも感心させられているが、しかし教会は何よりも祈りによって一つにされるという姿勢を重視し、立場の違いを超えて祈り合う連合祈祷会は40数年間途切れることなく続いてきた。11回の内2回は東支区との合同になり、東京教区内の二つの支区が協力して祈りの会を持っている。

 この会は遅くまで交通機関が動いている都会だからできる集会でもある。私は委員でもあり、皆勤ではないが精勤を心掛けている。月に一度他の牧師の説教が聴けること、他の教会の信徒の方の人生に触れられること、支区内諸教会を訪問できること等、自分自身を相対化するうえでとても大きなお恵みである。そして孤立しがちで、自己完結的になりやすい都会の教会にとっても大切なことと感じている。

 今月も趣のある立派な石造りの会堂・本郷中央教会を会場に、金曜日の夜に開催された。説教は目白教会のF牧師、立証がお隣の信濃町教会のM氏であった。M氏は満84歳、住まいは大泉学園町である。毎回杖を片手に参加されている。梅雨入りした東京は大雨と強風の夜となったが、M氏は信濃町教会が独自に取り組んでいる「支援特別委員会通信」を持参され、福島のいわき市から避難されているKさん親子を紹介した鋭く切実な文章を朗読され、今私たちの国で、この東京で何が起こり、何が進行しているのかを直視し耳を傾け続けるように、福島の子どもたちの未来への祈りに応えるようにと静かに強く訴えられた。

 それにしてもM氏のような高齢の方々がこれまでの教会を支えて来られたのだ。我が教会でも1時間半~2時間という遠方から通う90歳前後の方々がおられる。その真摯な姿勢こそ立派な証しであり、多くを学ばせて頂いている。健康が守られますようにと心から祈りたい。

坂町坂だより NO.336



 久しぶりに「本」を読み始めた。毎週の説教準備のために、何冊もの専門書や説教集、関連する注解や論文を読むことは基礎的作業として続けている。その意味では活字から離れていた訳ではない。しかししばらく前に、知人の書いた書評から関心を持って購入、一気に読了しこの欄でも紹介したうえ、更にクリスマスイブの礼拝で思い入れも強く紹介した1冊があった。それが全くの詐欺的な捏造であり、クラシックの話題曲も別人が作曲していたという事件があった。正直に言って少々ショックを受け、しばらく「本」を読む気にならなかった。

しかしどこかでリハビリしなくてはいけないので、お隣のW教会のK牧師が書いた書評から、気を取り直して読み始めた。それは赤坂憲雄氏の『震災考 201132014.2』(藤原書店)という本である。K牧師に連絡し、彼は読み終わっているであろうから、それを借りてきて読み始めたという次第である。

 赤坂憲雄氏は現在学習院大学文学部教授であるが、私とは同年である。赤坂氏の若い日に私も遠野で何度かお会いし、お話しを伺ったことがある。民俗学の研究が専門で、「遠野常民大学」の中核となった友人などと一緒に地道な活動を続けておられた。大変穏やかな人柄であるが、その東北への深い洞察、歴史と文化への切り口は説得力がある。1999年には責任編集による『東北学』を創刊し、その他にも一般社団法人「ふくしま会議」代表理事、福島県立博物館館長、遠野文化研究センター所長などの役職を担い、誰よりも深く東北を愛する人物の一人である。

 その彼もあの「311」直後の1週間、全く言葉を失っていたという。「東日本大震災が起こってから、わたしはしばらく言葉というものを失っていた。語るべき言葉など、どこにもなかった。空っぽだった・・」と正直に書き始められているこの本は、時系列で並べられた彼の言葉の回復の記録でもある。今・この時の世界的潮流と、日本国内の異端排除とも言える諸症状、政治的な体制翼賛会化などを踏まえながら、東北から、これまでも踏みにじられてきた弱者の視点から、この国の30年後、50年後の社会全体をデザインする、生存を懸けた新たな自由民権運動として位置づけ、復興ではなく東北の再生を目指す1冊である。

坂町坂だより NO.335


 
 20109月、北支区の常任委員会4役と信濃町教会長老T姉、当教会H長老の6名を案内し、レンタカーのワゴン車を駆って一路北を目指した。23日の奥羽教区・岩手地区の教会訪問の旅であった。東北道・岩手路と運転を交替しながら無事一関教会に。更に千厩教会、気仙沼の畠山さんを訪問。陸前高田で休憩し、大船渡教会、新生釜石教会で交流。遠野・日詰・江刺の各教会を廻り、一気に南下し東京に戻った。その帰路2度目の奥羽との交流は六ヶ所村の核燃サイクル施設を訪ね、原子力問題について学ぶことが課題であると話された。
 半年後、かの地を大津波が襲い多くの人命を奪い、生活の根底を根こそぎ呑み込んでいった。さらに原発事故の恐怖は列島全体を覆い、立てつづけに爆発する原子炉の姿と拡散する放射能、その汚染の深刻さと混乱は、暗く深い闇が足元で口を開けたことを実感させた。岩手沿岸の被害情報の収集と原発事故の報道。岩手の関係者などが集まっても来た。精神的にも追い詰められた時期だった。混乱と不安の中で誰もが動揺していたが、1週間後の18日北支区の仲間12人が大震災に対処すべくこの千代田教会に集まってきた。真剣な協議と対応の方向性を祈りつつ確認し、教会の信仰の内実が問われていると感じていた。
 あの日から北支区東日本大震災被災支援特別委員会は回を重ね32回目が当教会で開かれた。釜石から移植したバラが満開を迎えている時期、ついでに「復活のワカメ」のワカメごはんに酢のもの、茎ワカメの炒め物も用意して迎えた。委員会の組織は小さいが小回りが利き、人と人とが出会い繋がれる関係を目指し、ニュースも11回発行。主旨に賛同した諸教会の尊い献金が、奥羽教区を通して岩手沿岸の被災教会へ経常会計支援として送られた。また幼児施設の支援にも。更に福島の原発被害の教会支援、福島の幼児施設への飲料水支援等々、いつも丁寧に謙虚に関わり、何度も具体的に足を運び続けている。その熱心さと誠実さに対しては、岩手との間を繋いだ者として本当に頭が下がる思いである。
 夏には6回目の岩手訪問の旅、また秋には宿題であった六ヶ所村の核燃サイクル施設や建設中の大間原発訪問が企画され、かの地の方々との出会いと交流計画が、篤い祈りの中で準備されている。
 

 20109月、北支区の常任委員会4役と信濃町教会長老T姉、当教会H長老の6名を案内し、レンタカーのワゴン車を駆って一路北を目指した。23日の奥羽教区・岩手地区の教会訪問の旅であった。東北道・岩手路と運転を交替しながら無事一関教会に。更に千厩教会、気仙沼の畠山さんを訪問。陸前高田で休憩し、大船渡教会、新生釜石教会で交流。遠野・日詰・江刺の各教会を廻り、一気に南下し東京に戻った。その帰路2度目の奥羽との交流は六ヶ所村の核燃サイクル施設を訪ね、原子力問題について学ぶことが課題であると話された。

 半年後、かの地を大津波が襲い多くの人命を奪い、生活の根底を根こそぎ呑み込んでいった。さらに原発事故の恐怖は列島全体を覆い、立てつづけに爆発する原子炉の姿と拡散する放射能、その汚染の深刻さと混乱は、暗く深い闇が足元で口を開けたことを実感させた。岩手沿岸の被害情報の収集と原発事故の報道。岩手の関係者などが集まっても来た。精神的にも追い詰められた時期だった。混乱と不安の中で誰もが動揺していたが、1週間後の18日北支区の仲間12人が大震災に対処すべくこの千代田教会に集まってきた。真剣な協議と対応の方向性を祈りつつ確認し、教会の信仰の内実が問われていると感じていた。

 あの日から北支区東日本大震災被災支援特別委員会は回を重ね32回目が当教会で開かれた。釜石から移植したバラが満開を迎えている時期、ついでに「復活のワカメ」のワカメごはんに酢のもの、茎ワカメの炒め物も用意して迎えた。委員会の組織は小さいが小回りが利き、人と人とが出会い繋がれる関係を目指し、ニュースも11回発行。主旨に賛同した諸教会の尊い献金が、奥羽教区を通して岩手沿岸の被災教会へ経常会計支援として送られた。また幼児施設の支援にも。更に福島の原発被害の教会支援、福島の幼児施設への飲料水支援等々、いつも丁寧に謙虚に関わり、何度も具体的に足を運び続けている。その熱心さと誠実さに対しては、岩手との間を繋いだ者として本当に頭が下がる思いである。

 夏には6回目の岩手訪問の旅、また秋には宿題であった六ヶ所村の核燃サイクル施設や建設中の大間原発訪問が企画され、かの地の方々との出会いと交流計画が、篤い祈りの中で準備されている。

坂町坂だより NO.334


 

 女性の全く新しい視点から聖書を読み解く取り組みを続けておられるY先生の著書の中に、宇宙に関する記述があり、子どもの頃からプラネタリウムで星を見るのが好きであったこと、宇宙は偶然にできたのではなく、「この世界を超えた存在、それも、ただ超越して無関係に存在するということではなく、関係性を持つ存在、その存在を私たちはひとまず『神』と呼びますが、この宇宙は神が素晴らしい叡智をもって創られたに違いないと思えました」と記している。私も同じような感覚である。宇宙について考えることやハッブル宇宙望遠鏡等が撮影した感動する程美しい宇宙の姿を見ることが大好きで、毎晩眺めてから眠っている。

 先日もTV番組で超新星「1987A」について詳しい解説がなされ、ハッブルの本などで知っていた事柄を改めて分かり易く教えられ、超新星爆発について理解を深めることができた。南半球に見える大小のマゼラン雲は、私たちの銀河の伴銀河として知られているが16万光年ほど離れている。そのなかで1987年に超新星爆発が起こった。最初に見つけた若者が観測を始めて3日目だったとか、この爆発によって飛び出した素粒子「ニュートリノ」を発見し、ノーベル賞を受賞した小柴教授は退職を1か月後に控えていたというエピソードも面白かった。元の星は太陽の20倍の質量の星でしかも青い星が爆発したことの謎の解明、ニュートリノ到着から3時間後に爆発によって星が輝きだしたことの時差の意味など。実際の爆発は16万年前になるわけだが、その更に2万年前に連星が膨張した主星に呑み込まれるように合体し、その衝撃で吹き飛ばされていったガスが、爆発から「25年後」に3重のリングとして輝きだしていること。超新星爆発が鉄よりも重い元素を爆発によって生み出すことは知られているが、1987Aの周囲の宇宙空間には地球約20万個分の「チリ」が漂っていることなどを知った。

 太陽も46億年前に宇宙に漂う「ガス」から生まれ、地球も「チリ」が集まって誕生し生命を育む星となった。私たち人間はこの星の上でしか生きられない。しかしその星の上で今も対立や戦争を繰り返し、不信と憎しみを再生産し続けている。神の創造の秩序にもっと謙遜になり、キリストの平和の歩みを共にと祈り願わずにはいられない。

坂町坂だより NO.333



 山谷のお弁当屋「まりや食堂」に通い出して5年目になるが、伝道所の会員で食堂のスタッフの一人でもあったN兄が体調を崩し、更に他の症状もあって最近は食堂作業からは外れている。そのN兄の健康維持のために、祝日の投薬支援ボランティアを頼まれた。日曜日と週日は何とかなるのだが、祝日が手薄なのだという。GW5日の夕方4時に山谷の通称「ドヤ」の彼の個室に出かけ、わずか10ccほどの飲み薬を冷蔵庫から取り出して、確実に飲んで頂くという作業である。清潔そうなドヤを詳しく観察するほどの時間もなく、ほんの数分の訪問であった。

 そのためだけに一日を使うのは流石にもったいないので、妻と二人で埼玉方面の日帰りの旅に。朝リックを背負い、四谷から新宿そして大宮へ。大宮から東武野田線に乗って途中下車。兄が4月から赴任したN教会を訪ねて表敬訪問。教会を見学してから、主目的地であった春日部市のイベント「大凧揚げ大会」会場を目指した。春日部駅では情報不足から藤の季節が終わっていたり、駅の反対側に出るのに入場料を取られたり、無料送迎バスではなく有料で450円の臨時路線バスに乗ることになり、それが渋滞にかかったりと四苦八苦。やっと会場に着いたが、戻りの時間に追われて駆けるように広い会場の端から反対の端まで大移動。わずかに会場の群衆と「小凧・中凧」の揚るのを横目で見ながらシャトルバス乗り場へ。100円で野田線の駅まで移動。そこから2駅戻って春日部駅に。そして各駅停車に乗って南千住駅まで。妻と別れて、当初の目的であったドヤへと一人向かった、次第・・。
 
 ところでイースターに蒔いたゴーヤの種が可愛らしい芽を出し始めた。30ヶのポットの半分ほどに双葉が出ている。昨年のゴーヤの種から芽生えた「種からゴーヤ」、実は34年のものも混じっている。ともかくこの種からの芽を立派な苗に育てプランターに移す。さらにネットにはわせて茂らせ、再びの収穫を目指す。例年150本以上の収穫が目標。そのために昨年の古い土を「篩」にかけてきれいにし、苦土石灰を加え黒いビニール袋に入れて熱殺菌中。今後は再生材と肥料を混ぜ、プランターを準備して苗を植える予定。7月海の日の草取り作業日にはゴーヤチャンプルーが食べられるように、これから日々のお世話が大切だ。