2014年1月16日木曜日

坂町坂だより NO.317


 

 暮れからお正月にかけて、私の耳に入った訃報や葬儀の情報は片手では足らない程になった。しかも今週は、新たに親戚関係になった家族の訃報が届き、妻が葬儀のために北に向かった。年の初めに次々と訃報に接し、また知己や親戚の葬儀をどう受け止めてゆけば良いのか、思案しながら過ごしている。

 ところで東京に来てからこの数年、青学大神学科同窓会の下働きをずっと続けている。卒業生名簿の最後に名前を連ねている関係で引き受けているが、この37年間後輩は一人もいない。いつも最後で一番若い層になってしまう。その意味で聖書的には主イエスが教えられたように、仕えるようにという立ち位置が変わることなく続いている。その同窓会が協力をし、任意の読書会のグループが主催し神学科関係の「3先生を偲ぶ会」が正月早々に開かれた。私はいわば幹事役である。

 30数人の参加者とご遺族が集い、昨年亡くなられた先生方の人生を夫々に思い起こし、限られた人数ではあったが心からの思い溢れる言葉を語り合った。礼拝の部では、恩師のS先生が人生の終わりは未完であり、それ故に開かれたままで終わることを話された。それを含めて感じたことは、キリスト教というのは、つくづく「言葉の宗教」であるということだ。これまでも親しい仲間や先生方の葬儀において、その語られる言葉に耳を傾けてきた。そして自分でも葬儀の司式者として言葉を語ってきた。私たち人間が語る言葉は決して完全でも完璧でもない。しかし、真実と誠意、愛と思いやりに裏付けられた言葉は、聴く者をして素直に首肯させ、心の深いところで豊かな感動をもたらす。そこには夫々の人生における掛け替えのない出会いがあるからだ。3先生方に出会えたお恵みを誰もが感謝して家路に着くことができた。
 
 神学科が廃科されて37年が経過した。その最後の礼拝で5人の残られた先生方が一緒に讃美歌を歌っている写真が私の手元にある。その内の3人の先生方が天に召された。S先生はその時も「蜘蛛が飛ぶ」という例話を用いて新しい世界に飛翔することを、各地に散ってゆく数人の卒業生に向かって語られた。死もまた未完の人生の開かれた始まりなのかもしれない。未完のままに精一杯この1年を生かされて歩みたい。

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